こんにちは、寒い日が続いていますが、皆さんは大丈夫ですか? 私は腹痛が響いてお粥の日々です。

○○の反対

「愛の反対は憎しみではない。無関心だ。」
「美の反対は醜さではない。無関心だ。」
「信仰の反対は異端ではない。無関心だ。」
「生の反対は死ではない。生と死への無関心だ。」
とても今の時代を反映している言葉のように思います。これはエリ・ヴィーゼルさんの言葉をそのまま引用しています。
とくに「生の反対は死ではない。生と死への無関心だ。」については、人の死に近い仕事をしていますので、考えさせられます。私自身、祖母の死がはじめての身近な死でしたが(当時28才)それまで死について無関心でした。ぼんやり死という、いつか訪れるものを知っていても、普段の生活からは遠すぎて「無関心」でした。自分の身近な人の死で初めて「死」が「無関心」では無くなったように思います。
実際には、普段の生活に「生死」は溢れていますが「見えない・見えてない」だけと思います。たとえば、食は何らかの「生」をいただいていますし、子供の頃は昆虫などを飼っていたり、一緒に暮らすペット等も先に死を迎えてしまいます。ただ私の場合は「生死」が見えていませんでした。当たり前に毎日食事をし、飼っていた昆虫が死んでも「動かなくなった」という感じでした。「生死とは何か」に対しての無関心です。
反対の「関心」は、「関心=心にかけること。気がかり」とくに「興味をもって、注意すること」ということは、無関心は気にかけない、気にならない、興味がないということでしょうか。
時代を反映していると思う理由に、先ほどの「気にかけない・気にならない・興味がない」事が最近世の中に多いように感じたからです。スマホの普及でSNSを中心に、実際の周りの人間とコミュニケーションをとらず画面ばかり見ている方も多く、話しかけてもうわの空で独り言状態。結果、話しかけることを止めてしまい無関心に。逆に話しかけられても無関心で返してしまう生返事に、そして希薄な人間関係に。それでも良いでしょう。それもまた時代だと思います。代わりに遠くの方や数多くの方とコミュニケーションがとれている良いこともあるわけですから。
しかしひとつ気になる事が。孤立・孤独に慣れてしまう現代は少々怖い気がします。誰かと繋がっているし孤立・孤独じゃない、そう思うのはスマホなどの画面の中です。周りを見て「あの人最近見ない」「そう言えばいつ会話したかな?」と、身近な人とお互いに「関心」を持ち合えば、極端な「死に方」を選ぶ方が少し減るような気がします。
それではまた。